Macとインターネットが与えてくれたものは何だろうか。

今では、文章を書くのも曲を書くのも何でもかんでもMacだ。だから、何なんだ、と言えば、それまでのこと。そんなもん紙と鉛筆で書けるじゃん。ごもっとも。実際、そのこと自体は何ものでもない。けれども、Macでやっているから、インターネット上に載せることが容易になり、どこか遠くの人にも同じものを気軽に渡せるようになったわけだ。情報の流通の精度と速度の問題なのである(Mac以外のPCでも不可能ではないが、人間が自由に創作するにはMacが最適)。

例えば、あさがやんずという大変素晴らしいバンドがある。あさがやんずの活動は不定期な上に、ライブの回数は極端に少なく、活動範囲も非常に狭い(私の記憶が正しければ、あさがやんずのライブは杉並/中野/新宿でしか行われたことがない)。入手可能な音源も非常に限られている。だから、生のあさがやんずを聴いたり見たりしたことのある人々は、片手で数えられるというほどには少なくないが、10数年に及ぶ活動の割には、高が知れている。東京以外に住んでいる人々には接触する機会はほとんどなかったはずだ。

ところが、彼らの音源の極々一部がインターネット上のサイトに載ったときには海外からのリアクションもあったのである。どこをどう伝わって辿り着いたのかはよくわからない(いや、実際、今でも皆目検討がつかない)が、それでも、兎に角、あさがやんずを聞き、メールでコンタクトを取ってきた人々がいるのである。Yeah, this is the Internet.

Ericと出会ったときもそうだった。本をみつけたのもインターネット上でのことだし、読了後に本人とコンタクトできたのもインターネットあってのこと。全てが偶然の連続(ユング松本さんは、それぞれの理由で、これを偶然とは考えないだろう)だったのだが、少なくとも、それを引き起こすには、Macとインターネットが不可欠だったことは間違いない。

からす新聞にも書いたことだが、メールは手紙や電話の代替物ではない。新種のコミュニケイション・ツールなのである(当たりまえだ)。外国までひとっ飛びだからというだけなく、画像や音声を添付できるからというだけでなく、送受信者の双方にデータが残るからというだけでもなく、新しいのは、その感覚ゆえである。メールは独自の、それこそメール感覚とでも呼ぶべき特別な何かを持っている。不透明な距離感があるのだ。

ある朝突然に、メキシコに住むメキシコ人の女の子からたどたどしい英語で「I would like to know about Japan.」というメールが舞い込んだりする。手紙や電話だったらどうだろう。「おい、おい!」ってなもんで、普通なら、大なり小なり訝しむところだろう。だが、メールだと、そういう違和感は極めて少ない。「Hi. It's cloudy here in Tokyo.」なんて、当たり前のように会話が始まる。

なぜだろう。それは、そこには肉体が介在しないような錯覚があるからだ。あるいは、ぼくたちを長年束縛してきたものが介在しないような気がするからだ、と言っても良い。だが、落とし穴はここにある。結局のところ、媒体が変わったところで、現実が直接的に変様するわけではない。精神だけの存在になれるわけではないのだ。

変わるのは、飽くまでも、方法なのである。ただ、その変化は思っているよりも大きな力を秘めているかもしれない。少なくとも、大きな可能性はある。

Back?

Top?